このごろ、人に話すことが増えてきたことのひとつ、わたしの言語習得歴について。
と書くと、何か国語も話せる人のようですが、じつは悩みどころで、話せないのですが翻訳作業ということに長けているようなのです、幼少期から。
きっと前世の記憶なのだと、今は確信的です。
まずは、日本の古語、雅語が中高校生ですらすら読めました。
それに伴う漢語読解も。誰に教えてもらわなくとも、自分が辞書を作ったのではないかとおもうほど、辞書が後からついてくるような気がしてなりません。
この流れで國學院大學に入学したのは、ご縁というか必然というか。
大学では、フランス語、ドイツ語の近代文学の詩の翻訳。
そしてそのあとは韓国語とアイヌ語の翻訳。
ところが、どれも、自分でいうのもなんですけれど、よく出来る。
どんどん突き進む。
本一冊の翻訳も軽々。
そして出会う言語は特殊で、いわゆる神々とのコミュニケーション
出会ったと思われるものが多いのです。
韓国語も、現代の会話に使われるものでなく、告祓(こさ)と言われる
儀式に使われる特別なものを教えていただいたり、アイヌ語もカムイノミ
やユーカラの言葉を教えていただく流れになるのですから。
英語だってハイイングリッシュというメディスンマンの英語に行きつくなんて、もう自分の意思ではないのです。
何を気づかせてくれるために?
しかし、どの言語も、きちんと血肉になるまで習得できたかというと否
なのです。かならず障害がおきる。
特に、他人のなにか念のようなものに、いつも惑わされます。
と、感じていたら、それは民族への理解の欠如なんだと最近気づきました。
自分がやりたい、自分が表現したい、自分が自分が、という
自分のものにしたいエゴが、習得を阻んでいたのです。
アイヌ語から韓国語に本を一冊翻訳したとき、この壮大なるエゴの海
に溺れてしまいました。
神ごとを他の言語に、しかも詩を翻訳することのむずかしさよ。
そしてしばらくは筆をおいていたのに、なぜかサンスクリット語がやってきました。
まさしく儀式のための、神さまが人間に教えてくださった言語です。
これは、この勉強を続けていくうちに、自分が、自分が、という物の見方や考え方が
いかに愚かか、そして、言葉を学ぶ上で先生という方、伝統の理解の大事さを身に染みて思うのです。
続きは次回。
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